野口製茶所物語

明治33年 共盛社を設立、荒茶の製造を始める

工場完成時の棟札
工場完成時の棟札

右の写真は、当時の工場完成時の棟札。

 

近隣の農家拾数軒により共盛社を設立し、荒茶の製造を始める。お茶の手揉み研修所が併設される。

 

昭和初期に共盛社が解散となり、野口茂重(当店初代)がこれを引き継ぎ、荒茶の製造を続ける。

昭和9年頃の店舗前での写真

この頃、荒茶の製造と共に、精米の仕事も並行して行っていました。下の写真の左から2番目が茂重(もじゅう)です。

 

茂重は地域では人望も厚く「茂重(もじゅう)さ」と呼ばれ、みなさまから親しまれていました。名前は「もじゅう」という珍しさもありすぐ覚えてもらえ、ちょっとした有名人でした。

店舗前での写真
店舗前での写真

いまだに近くのお寺(大洞院等)で売り出しを行なっている時、お客さんから「どこのお茶や?」と聞かれ「野口製茶所です」と答えると「あぁ~、茂重さの所か」と茂重の名前が出る程です。

当時の茶畑
当時の茶畑

昭和14~18年頃の茶畑

茶畑での集合写真
茶畑での集合写真

この頃は自家の茶園があり、新茶時期には近所の人たちなどに茶摘みを手伝ってもらい、また近隣の農家からも生葉を仕入れ、約10人の茶師が24時間交代で工場を動かしていました。

 

できた荒茶は森町の問屋に卸していました。

 

戦後になり荒茶の製造に加え、荒茶製造のみだとお茶時期にしか仕事がないため、1年中できる仕上げの仕事も始める。

 

自分たちで製造した荒茶を仕上げし、そのお茶は森町の問屋に見本を出し、東京などのお茶屋に売ってもらっていました。

昭和20年頃 2代目 邦男のお茶の仕入れの様子

お茶の仕入れの様子
お茶の仕入れの様子

邦男は戦争に2~3回行き体を悪くし、戦後は仕上げたお茶の様子を見るなどの重要な仕事以外は、弟に任せていました。

昭和38年頃の写真(下図)

車の写真(座っているのが2代目邦男、後方が弟夫婦) この頃田舎ではまだ車が珍しい時代でした。写真の車が、野口製茶所にとって初めての車です。この車で生葉などを運んでいました。荷台に乗るのも楽しみの一つでした。

当時のアルバムより
当時のアルバムより

昭和37年頃、東京のお茶屋さんでの1年間の修行を経て、利彦が野口製茶所3代目となる。東京のお茶屋での修行時代に小売業を学びました。この頃には、直接消費地のお茶屋に仕上げたお茶を卸していました。

 

卸業のみで県外への出荷がほとんどでしたので、地元森町の人たちに飲んで頂く機会がありませんでした。せっかくおいしいお茶ができるのだから、「近所の人達にもおいしいお茶を飲んでもらいたい!」という思いから、小売業を始めました。

 

始めはなかなか売れませんでしたが、親戚や知り合いに飲んでもらい口コミでおいしいという評判が広がり、買いに来てくれるお客様や注文をしてくれるお客様が増えてきて、地方発送もするようになり少しずつ小売業が軌道に乗り始めました。

昭和38年頃の写真仕上げ工場の様子

この頃は1日約4,000kgの生葉を扱っていました。昼の2時と夜中の2時の交代の12時間勤務のため、夕食を夜中の2時過ぎに摂る事もあり、工場で寝てしまうこともしばしば。4番茶が終わると、焙炉(ホイロ)あげ(慰労会のようなもの)にてみんなで労をねぎらいました。

昭和44年に結婚し、3代目の妻 道子も計測や事務を手伝ったりしました。計測はしょいカゴいっぱいの近所の茶畑から摘み取られたばかりの生葉をカゴごと量り、その後生葉を出してからのカゴを量るという2段階で量っていました。その差を生葉の重さとして買い取っていました。

 

昭和49年頃、荒茶の共同工場が周辺ででき始めたため、荒茶の製造を終了。その後は荒茶を仕入れ仕上げをし、お茶の販売に力を入れていく事にしました。

小さい頃の兄弟の写真
小さい頃の兄弟の写真

左から次男 赴、長男 哲也、長女。小さい頃は3人仲良く遊んでいて、家の隣の工場に入り込んではよく叱られていました。

昭和52年頃の店舗前での写真

地元のお祭りでの親戚との記念写真です。これからみんなそろってお祭りにお出かけです。

親戚と記念写真
親戚と記念写真

昭和62年 店舗兼自宅を建て直す

建て直している間は、仮の住まいとして工場の一部に畳を敷き詰めて、一家で利用していました。茶師の人達がいた頃使っていた工場の中の風呂なども使い、工場の生活を約半年間楽しみました。

 

長男は大学卒業後に就職し、より多くの人とふれあいながら世間の仕組みを学び、弟より一足先に野口製茶所で働き出す。

 

次男は大学卒業後に就職し、営業を学ぶ。営業の訪問先で出されるお茶を飲んでいるうちに、

「何で?ここのお茶はおいしいぞ!」

「えっ・・なんかおいしくないぞ・・」


と感じ始め、なんでこんなに味が違うのだろう?と思い、お茶の魅力に気付き、もっとお茶について色々と知りたいと思うようになり、会社を退職。お茶についてとことん追求していこう!とあれこれ考え、数ヶ月悩んだ挙句、お茶屋になろうと決めた。そして、近くのお茶屋で約2年半修行。

 

その中で初めて知ったのが、新茶は4月下旬から5月にかけてできるということ。その時期は約1ヶ月間休みがないという事(もちろんゴールデンウィークも)。体が慣れず、とても疲労困憊だった。

 

お茶についてまったく無知であった私は、お茶がどのようにできるかも知らず、新茶時期の始めに摘まれたお茶の葉がみるく高級茶になる事、徐々に葉も大きく成長し摘まれたお茶は価格も下がっていく事など、基本から学び始めた。

 

そこではとにかくお茶の味を覚えろ!ということで、毎日何十杯ものお茶を飲ませてもらい、味の違いを体に叩き込んだ。

日本茶インストラクター登録証
日本茶インストラクター登録証

少しずつお茶の事を理解しはじめ、もっとお茶について学びたい!と思い、日本茶インストラクターの試験があることを知り、ちょうどいい機会だったのと修行先の社長の薦めもあり、日本茶インストラクターの試験に挑戦することに。

 

結果、見事合格!

 

仕入れから仕上げ、販売までのお茶屋の流れを学び、野口製茶所で家族と共に働き始める。その後結婚し、妻に忙しい時など仕事を手伝ってもらっています。

平成20年 工場建て直し

明治33年に建てられた工場を使いやすいように増改築を繰り返し大きくしてきたが、区画整理と工場の老朽化により建て直す事に。(昔住んでいたこともあった工場なので少し残念・・・でも老朽化だから仕方ないか)

古い工場の外観
古い工場の外観

3代目夫婦 東京浅草にて

浅草の人力車
浅草の人力車

息子2人に仕事を任せられるようになり、ゆっくりと旅行を楽しめるようになってきました。東京の妹夫婦に招待されて、相撲を見に行ってきました。浅草で人力車にも乗せて頂き、とても楽しかったです。

 

長年慣れ親しんだ古い工場ともお別れし、明るくなった全てが見渡せられる工場で、今まで以上においしいお茶を作れるように取り組んでいます。

 

家族だけの小さなお茶屋だからこそ、一人一人のお客様とのコミュニケーションを大切にし、おいしく味わっていただけるよう心がけています。

野口製茶所の家族写真
野口製茶所の家族写真

明治33年創業の野口製茶所です。商品(お茶)に関することやご質問・ご不明な点等あれば、何でもお問合せください。真心を持って丁寧にお答えいたします。